「愛猫の体にメスを入れるなんて、人間のエゴではないか…」
夜、窓の外に向かって切なげに鳴く愛猫の背中を見ながら、そう胸を痛めている飼い主さんは少なくありません。特に、初めて猫を迎えた方にとって、元気な愛猫に手術を受けさせる決断は、言葉にできないほどの重圧でしょう。
しかし、獣医師として、そして一人の猫飼いとして、私はあなたに一つの真実をお伝えしたいのです。去勢手術は、愛猫から何かを奪うものではなく、「発情の苦しみ」から解放し、穏やかな一生をプレゼントする行為です。
この記事では、多くの飼い主さんが抱える「かわいそう」という罪悪感に寄り添いながら、獣医学的なメリットやリスク、そして一人暮らしの方でも安心して実践できる術後ケアの方法まで、去勢手術に関する全ての知識を包み隠さずお話しします。読み終える頃には、あなたの迷いが「愛猫への確かな愛情」へと変わっていることをお約束します。
この記事を書いた人
高橋 亮介(獣医師 / 猫行動学研究家)
小動物臨床歴15年。猫専門病院での勤務を経て、現在は猫の行動学とペットロスケアを中心に活動中。自身も2匹の元保護猫と暮らす。「飼い主の心の痛みに寄り添う獣医療」がモットー。
「かわいそう」と迷うあなたへ。猫にとっての本当の幸せとは?
「自然のままにしてあげるのが、一番の幸せではないか?」
診察室で去勢手術の相談を受ける際、多くの飼い主さんがこのようにおっしゃいます。その優しいお気持ち、痛いほどよく分かります。私自身も獣医師になる前、初めて愛猫の手術を決めた時は、同じように葛藤し、眠れない夜を過ごしました。
しかし、動物行動学の視点から見ると、「自然のまま」という言葉には大きな誤解が含まれています。野生動物と違い、人間社会で暮らす猫にとって、避妊去勢手術を行わずに発情期を迎えさせることこそが、実は大きなストレス源となるのです。
発情は「性欲」ではなく「解消されない苦痛」
猫の発情行動は、人間のようなロマンチックな恋愛感情や性欲とは異なります。それは、子孫を残すという強烈な本能に突き動かされた、コントロール不能な衝動です。
発情期を迎えた猫は、交尾をして排卵刺激が起きない限り、その衝動が満たされることはありません。 室内飼育で交尾ができない環境下では、猫は「解消されない本能的な欲求不満」に何日も、時には何週間も晒され続けることになります。
夜通し大きな声で鳴き続けたり、食欲が落ちて痩せてしまったりするのは、猫自身が強いストレスと戦っている証拠なのです。
📝 専門家の経験からの一言アドバイス
「手術しないこと」を選択するならば、それは愛猫に「一生続く欲求不満」を背負わせることと同義であると認識してください。
猫にとっての本当の不幸は、一時の手術の痛みではなく、発情しても交尾できない本能的なストレスに生涯晒され続けることです。この知見が、あなたの「かわいそう」という感情の定義を変え、愛猫の未来を守る決断の助けになれば幸いです。
環境省が発行しているガイドラインでも、望まない繁殖を防ぐだけでなく、猫自身のストレス軽減や健康維持の観点から、不妊去勢手術が推奨されています。手術は、愛猫をこの永続的な苦しみから解放してあげられる、唯一の手段なのです。
手術は愛猫への「最初のプレゼント」。医学的メリットとリスクの真実
ここからは、感情論だけでなく、獣医学的なエビデンスに基づいて、去勢手術が愛猫にもたらす具体的なメリットと、飼い主さんが最も心配されるリスクについて解説します。
去勢手術がもたらす3つの大きなメリット
去勢手術と猫のQOL(生活の質)には、密接な関係があります。 具体的には、以下の3つの側面で愛猫の生涯を支えることになります。
🎁 去勢手術は愛猫への「最初のプレゼント」
発情ストレスからの解放だけでなく、約90%のオス猫でスプレー行動(マーキング)が消失・減少します。
精巣腫瘍を100%予防できます。また、前立腺肥大などの関連疾患のリスクも大幅に低減します。
脱走による事故や、他の猫との喧嘩による怪我・感染症(猫エイズなど)のリスクが激減し、寿命が延びる傾向にあります。
麻酔リスクと術前検査の重要性
一方で、「全身麻酔で死んでしまったらどうしよう」という不安も当然あるでしょう。
確かに、麻酔リスクはゼロではありません。しかし、健康な猫における麻酔関連死のリスクは約0.11%(約1000頭に1頭程度)という報告があり、これは極めて低い数値です。
さらに、このリスクを限りなくゼロに近づけるために不可欠なのが「術前検査」です。全身麻酔と術前検査はセットで考えるべきであり、血液検査やレントゲン検査で隠れた心臓病や肝臓の異常がないかを事前に確認することで、安全に手術を行うことができます。
一人暮らしでも大丈夫。失敗しない手術のタイミングと術後ケアのコツ
「仕事が忙しくて、術後のケアをしてあげられるか不安…」
特に一人暮らしの飼い主さんにとって、術後の管理は大きなハードルです。しかし、適切なタイミングと便利なアイテムを活用すれば、働きながらでも十分にケアが可能です。
最適な時期と費用相場
- 手術の時期: 一般的に生後6ヶ月前後(最初の発情が来る前)が推奨されます。発情前に手術することで、スプレー行動の習慣化を未然に防ぐ効果が高まります。
- 費用相場: オス猫の去勢手術は15,000円〜30,000円程度が一般的です。病気の治療ではないためペット保険は適用外となることがほとんどですが、自治体によっては助成金が出る場合もあるので確認してみましょう。
一人暮らしの強い味方「エリザベスウェア」
術後ケアで最も大変なのが、傷口を舐めないように装着する「エリザベスカラー」の管理です。プラスチック製のカラーは、食事やトイレの邪魔になり、猫にとって大きなストレスとなります。留守番中にカラーが家具に引っかかる事故も心配です。
そこで、私が一人暮らしの飼い主さんに強くおすすめしているのが、「エリザベスウェア(術後服)」です。
エリザベスウェアとエリザベスカラーは、傷口を保護するという目的は同じですが、猫のQOL(生活の質)には天と地ほどの差があります。 ウェアであれば、猫は普段通りに動き回ることができ、食事もトイレもスムーズです。何より、留守番中に何かに引っかかるリスクが低いため、飼い主さんも安心して仕事に行けます。
| 比較項目 | エリザベスカラー (従来型) | エリザベスウェア (術後服) |
|---|---|---|
| ストレス度 | 🔴 大きい (視界不良・動きにくい) | 🟢 小さい (洋服感覚) |
| 食事・水飲み | 🔺 容器に当たり食べにくい | 🟢 普段通り可能 |
| トイレ | 🔺 砂かきがしにくい | 🟢 普段通り可能 |
| 留守番の安全性 | 🔺 家具への引っかかりリスクあり | 🟢 引っかかりにくく安全 |
| 価格 | 🟢 安価 (病院で貸出の場合も) | 🔺 購入が必要 (3,000円〜) |
💡 準備のポイント
手術日が決まったら、事前にネット通販などで愛猫のサイズに合った「エリザベスウェア」を1着用意しておきましょう。
病院で着けられるカラーを嫌がって暴れてしまう猫ちゃんも多いです。事前にウェアを用意し、数日前から着る練習をしておけば、当日は驚くほどスムーズに術後生活をスタートできます。
先生、本当のところどうなの?去勢手術のよくある質問
最後に、診察室でよく聞かれる質問に、獣医師として本音でお答えします。
Q. 手術をすると性格が変わってしまいますか?
A. 攻撃性が減り、本来の甘えん坊な性格になることが多いです。
「元気がなくなる」と心配される方がいますが、それは違います。去勢手術によって男性ホルモン(テストステロン)の分泌が減ることで、縄張り意識や攻撃性が和らぎ、結果として穏やかで人懐っこい性格が表に出てくる傾向があります。猫本来の可愛らしさがより深まると考えてください。
Q. 術後は太りやすくなるというのは本当ですか?
A. はい、太りやすくなる傾向があります。
手術後は基礎代謝が落ちる一方で、食欲が増すことが多いためです。しかし、これは飼い主さんの食事管理で十分にコントロール可能です。術後専用の低カロリーフードに切り替えるなどして、適正体重を維持してあげましょう。
Q. 手術当日の流れを教えてください。
A. オス猫の場合、多くは日帰り手術が可能です。
午前中に預かり、術前検査と手術を行い、麻酔から覚めた夕方にお迎えというパターンが一般的です。手術時間自体は10〜30分程度と短時間です。金曜日に手術を受ければ、土日は自宅で様子を見られるため、お仕事への影響も最小限に抑えられます。
まとめ:その一本の電話が、愛猫の幸せな未来への第一歩
去勢手術は、決して愛猫を傷つける行為ではありません。それは、「発情の苦しみ」や「将来の病気」という見えない敵から、大切な家族を守るための最強の盾です。
「痛い思いをさせる」のではなく、「未来の苦しみを取り除いてあげる」のだと、どうか自信を持ってください。
もし、まだ迷いがあるなら、まずは信頼できる動物病院に「術前相談」の予約を入れてみてください。手術をするかどうか決めるのは、獣医師と話してからでも遅くありません。
その一本の電話が、あなたと愛猫の、穏やかで幸せな未来への第一歩となることを、心から願っています。
参考文献
- 住宅密集地における犬猫の適正飼養ガイドライン – 環境省
- ふやさないのも愛 – 環境省
- Brodbelt, D. C., et al. (2008). “The risk of death: the confidential enquiry into perioperative small animal fatalities.” Veterinary Anaesthesia and Analgesia, 35(5), 365-373.

